設計者: 石黒 五十二(いしぐろ いそじ) 工部省 海軍 呉鎮守府建築委員 土木技師 曾禰 達蔵 (そね たつぞう) 工部大学(東京大学建築学科の前称) 建築技師 工部省 海軍 呉鎮守府建築委員 (ジョサイア・コンドルに学ぶ)
施 工: 海軍工部省主菅 大倉組(後の大成建設)と藤田組が後に合併した日本土木会社が施工する 明治20年8月 第Ⅱ海軍区呉鎮守府 最初の施設として起工 明治21年3月 境橋架設堰堤工事 竣工
場 所: 眼鏡橋は現在の本通1丁目呉集会所青山クラブとJR呉線 高架橋地下 に在る。 流れる川は清水川、宮下川・桧垣川とも えら田川とも 古くは境 川と呼ばれ休山を 源流にYWCA横・入船山の傍を経て暗渠となりこの橋をくぐり呉線に沿い流れ 堺川に至る。 鎮守府建設時、宮原村と和庄村の村境の川で堰堤「境(さかい)橋(ばし)」として架橋され 完成後 「眼鏡橋」と呼ばれる白色のすばらしい橋であった。
目 的: 第Ⅱ海軍区呉鎮守府開庁時に 川の砂を海に流さぬ為の砂溜池・砂防堤 として設置
サイズ: 橋長 約26.2m 橋幅(アーチトンネルの長さ) 18.7m 水路幅 3.6m 堰堤高 4,6m
※ アーチ部分の事を「穹窿」(きゅうりゅう)と呼ばれ、堰堤部分完成後に「穹窿」部分は 築かれた又この「穹窿」の中央、左下部に 幅82cmの小さな坑道「小穹窿」が見つかるが 土砂に埋もれている為経由 内部構造の詳細は不明で堰堤と同時期に構築されたとすれば、 大規模工事であったと考えられる。
その他: 堰堤・袖石垣部分には角柱約2,500個要す、砂溜池部分は未解明
資料 国立公文書館アジアナ史資料センター
眼鏡橋建造時の呉は軍港建造が一挙に始まり、元よりの住民の数を上回る工事人夫等が 全国から集まり、まるで天地がひっくり返った様相で大混乱の連日、ケガ人も多発の創設 期であったようです
※眼鏡橋の雄姿が見られたのは、僅か40年余りで、昭和6,7年頃から戦況の流れ、兵員の 増大で隣地の(青山クラブ)集会所は増改築され、鉄道の敷設(今のJR高架橋)等で埋められ その後、存在すら忘れられ 今日に至ったっています。
※それまで眼鏡橋の存在は知られていたがその姿は謎で、資料がほとんど無く平成に入り 井上博義氏提供の1枚の葉書でその雄姿を知る事となる。
また直近に国立公文書館の関係資料(古文書)が見つかり内容を究明中で、 新しい史実や建造、構造等の技術的な事実が判明次第反映させ追加掲載いたします。
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